公開日 2022年01月

~老いたかな、老いたのだ~
80歳にもなると起き上がる時に、あるいは、腰を下ろす時に、「ドッコイショ」と声を出しているのに気づいて思わず苦笑いをする。いつ頃から声を出すようになったのかの確かな記憶はない。ただ、気が付いたときには「やはり、歳だな」とちょっと悲しく、だが、抵抗なく受け入れられた。
ところで、この「ドッコイショ」の掛け声(と言うのだろう)は、なんとなく、有名な草津節の「草津よいとこ 一度はおいで ア ドッコイショ」の一節を思い出し、この掛け声であると勝手に思い込んでいた。熱いお湯を入浴に適温にする、湯を冷ます(湯もみ、と言うらしい)ときの歌声であるから(と思っていた)である。
先日の事、ある僧職の人のエッセイを読んでいると、「六根清浄」(ろっこんしょうじょう)が語源であり、訛って「ドッコイショ」となったというのである。今でも、修験者でなく一般の方でも「六根清浄」と掛け声をかけて山に登る人がいる。厳しい山なら息も絶え絶えに、次第に掛け声が訛って、六根清浄、ドッコイショ、となってもおかしくはない。
六根清浄の掛け声、呪い(まじない)、祝詞なのか分からないが、インターネットには、欲や迷いを断ち切って、心身が清らかになること。「六根」は私欲や煩悩、迷いを引き起こす目・耳・鼻・舌・身・意の六つの器官をいう。「清浄」は煩悩や私欲から遠ざかり、清らかで汚れがない境地。略して「六根浄」ともいう。更に、場を清めるとも。
少し昔のことを思い出した。護摩供養の後である僧職の方が「座りたる、石に合掌 遍路立つ」の句を紹介された。合掌の意味は尊敬と感謝であり、石へのお遍路さんの気持の表現である。と同時に、場を清めるという六根清浄の意味も含まれるようにも思えるのだ。老いてくると座り方も綺麗ではなく、起き上がる、座る、ときにドッコイショと場を清めているのかとも思っている。
(写真は梅を見ながらのお遍路さん。文とは無関係)
徳島広域消費者協会 顧問 三原茂雄