公開日 2021年01月

~もちろんない、神仏混淆の名残か~
鳴門市大麻町板東で有名なのは大麻比古神社と札所寺・霊山寺である。私は、小学校3年生の夏までしか住んでいなかったが、戦後は新旧の正月には初詣客が駅から繋がって、乏しい記憶であるが、初詣の人の流れは、まず大麻比古神社へお参りして、帰途に霊山寺に寄っていたようである。だから、理由もなく初詣は、まず神社、次いでお寺と思っていたが、後に赤河内村(現・美波町)山河内に住んでいたときには、臨時列車が出るほどに初詣は薬王寺(当時は日和佐町、現・美波町)であった。
その後、初詣の寺と神社の参拝の順序はないようで、気にも留めなくなった。神仏混淆(しんぶつこんこう)思想という言葉を学校で習ったときに、ふと昔日の記憶を思い出した。神と菩薩を一緒に祀ったり、同じ、あるいは近くで祀ったり、そのことが日本人には違和感がないし、現在も神社とお寺が隣り合わせに建っているところも多い。お寺の境内に天神社を見かけることは珍しいことでもないのである。
寺社の参拝も、手を叩いて音を出す神社、手を合わせるだけ、いわゆる合掌の寺と同じではない。祓え賜えと唱える神社、南無という寺とここも微妙に異なっている。二礼二拍手一礼の神社、初めと終わりに一礼ずつでよい寺。更に、賽銭の意味を初めて知ったのだが、調べると「神社の場合は、神様へ日頃の感謝の気持ちをお伝えする表現としてお賽銭を納める。対して、お寺の場合は自分の欲を捨てる『お布施』という修業のひとつである」。私のような下衆な者は願い事の対価のように思っていた。
いずれにしても、結局は神社と仏閣の参拝の仕方を理解せず、できず、我流のままである。令和3年は良い年になることを祈り、願い、柏手を打ち、合掌して拝むのであるが、1円の賽銭では虫のいい話である。
(写真は雪の日の一番札所・霊山寺)
徳島広域消費者協会 顧問 三原茂雄