公開日 2023年03月

~身内才無朽(身の内の才は朽つること無し)~
私の子ども時代は団塊世代のほんの少し前である。戦争中、あるいは戦後間もないころには旧制の中学校や女学校に進学できるのは恵まれた一部の家庭の子であった。尋常小学校(戦時中は国民学校)から就学年の少ない高等小学校や青年学校にも進学できる経済的に許される中間層は多くはなかった。旧制中学校や女学校への進学はさらに少ない。私の父も小学校さえ十分学び切っていない。
戦後、国民学校は小学校になり、新しく義務制の中学校(通称新制中学校・略称新中)が出来た。旧制中学校・女学校は高等学校になり、旧制高校は大学になった。6・3制野球ばかりが強くなり、と揶揄された。大学は駅弁大学と言われたが、昨今、駅弁は地方の駅、徳島でも見かけない。最近なら誉め言葉のようにも思える。
戦後の徳島県の高校進学率も低く、いわゆる集団就職で、小松島港から多くの中卒生が船で都会へと出て行った。港は紙テープが舞い、春の恒例行事であった。私は50代の大半を通信制高校で勤めた。そこに団塊世代の方の嬉々として通学する姿があった。私とほぼ同世代のおじさん、おばさん、が運動会・遠足・文化祭に仕事の合間を割いて参加した。
旧制中学・女学校や新制高校に進学できなかった親たちは子どもの教育に力を入れた。言い換えれば、家庭が貧困で進学できずに中卒で働き始めたので、自分の子どもを高校・大学へ進学させることが、親の夢でもあった。子に譲るほどの金はないが、せめて学歴はつけさせたいと。その時の親の思いは、「倉内財有朽(倉の内の財は朽つること有り)、身内才無朽(身の内の才は朽つること無し)」。倉の財は朽ちてなくなることはあるが、心の財はなくならない。子どもに残してやれるのは身につけた教育である、と思っていたのである。
そんな親心をよく知っていた当時の高校生の多くはよく学んだ。冗談であろうが、当時のある生徒に「なぜ進学したいの。してきたの。」と聞くと「親孝行です」。と真面目に答えた生徒が居た。学部・学科は問題ないのであり、親の喜ぶ顔を見たかったのだ。今の高校生・大学生はどうであろうか。アルバイトや部活に明け暮れず学んでいるだろうか。
(写真は広島天満宮、天神社ではない。幟はこの季節だけ立つ「学問の神様」)
徳島広域消費者協会 顧問 三原茂雄