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vol.154.不要な時にあり、必要な時にないもの

公開日 2023年11月

R5.11月号コラム

~バス停のベンチ~

 ちょっと数学の教師であったので数字の話から、数字の二十、三十、四十、は、はた、みそ、よそ、などと読む。接尾語、ち、ぢ、をつけて、はたち、みそぢ、よそぢ、などは年齢を表すことになる。そしてどういうわけか、ぢ、に、路の字を当てる。三十路、四十路、私は八十路になった。笑われることだが、八十に八十路の路が付けば、80代のことだと長く信じていた。八十路は、八十(80)歳のことである。

 前置きが長くなったが、若いころはバス通勤であった。毎朝毎夕バス停でバスを待つのが常である。それも徳島バスと徳島市営バスを乗り継いでいた。5分から10分程度の待ち時間は当たり前であり、時には待ち時間が20分になることも少なくはなかった。それでも停留所に設置してあるベンチに座ってバスを待ったことはほぼない。

 視力が衰え、自転車で高低差を見誤り転んでからは、足の太腿の筋肉が弱り、体力は急激に落ちた。足の突っ張る筋肉が弱く、股を開いて安定感を保つ、腰を引き頭は前に突き出すようになる。これも体の安定を保つためである。このようになるとバス停では立ったまま数分の待ち時間が辛く、ベンチにヨッコラセと座る。

 数年前にバス停に近い横断歩道の危険性が叫ばれだした。少しバス停の位置が移転された。気が付けば、私の乗り降りする、鍋川橋、広島西、広島の各バス停からベンチが消えた。歳を得てバスを待つのが辛くなってきて、ベンチの必要性を感じるころにベンチの撤去である。それはないだろうと思わざるを得ない。

 もちろん、行政相談に伺った。国道沿いの停留所は国道管理の国の相談所、不便だとの要望がないとの回答。県道沿いのバス停の要望は町の行政相談である。要望を伝えるとの話しであった。県道に沿ってのバス停は、昨今車椅子の利用もあり、ベンチを置くスペースがないことは理解するが、個人的には不要な時にあって、必要な時にないもの、なーに、と問われたら、私の返事は「バス停のベンチ」である。八十路の老人の愚痴である。
(写真は、工業団地前停留所 文とは直接関係はありません)
    


阿波の助っ人・くらしのサポーター 三原茂雄