公開日 2024年02月

~それしかできなかっただけ~
馬齢を重ねるとついつい「昔はよかった」との愚痴をこぼしたり、口走ったりして笑われることがしばしばである。言っていることは間違いではなくても、時代を考えれば回顧談であっても結果として好ましくないことも多い。とは言っても口に出すので老化は困ったものである。
私の小学校時代は給食などあるはずもなく、遠くから通っている児童は、おそらく弁当を持ってきていたのだろう。私は近かったので食べに帰った。昼食時間がどのくらいであったかの記憶はないが、例え雨が降っていても家に帰って、冷たいご飯に作り置いてくれた冷たいおかずで素早く食事して再び登校した。
放課後は集団下校もないし、学校の校舎内で居る場所はないので校庭で適当に遊んで帰るのである。そのような子供ばかりであるので、上級生が下級生を遊んであげることが普通であった。なんとなく集まって時間を潰すのだ。山間地で配達がなく駅前まで行って新聞の配達所から新聞を持って帰るのが子供仕事だった家庭もあった。
昨今、私の周辺は集団登校、学校を終えれば集団下校、そして集団で児童館へ。宿題などの指導、なんとなく学校の延長のような生活が続く。仲間との遊びも決められたものを指導員の監督の下で過ごすのである。中には塾へ行くにしても、どこも学校形式のところばかりの毎日である。息苦しくならないのが不思議である。不登校生にもフリースクールと、カタカナ語である学校へ登校を迫るのである。
昔は、子どもにとって学校は勉強するところではなくワイワイガヤガヤと遊ぶところで、不登校は見られなかったように思う。だから昔のようになればよいのかは、現実に難しい。神社や空き地でゴム跳びをしたり、缶蹴りで遊んだり、とは想像し難いのである。昔はよかった、のではなく、昔はそれしかしようがなかったことを懐かしんでも現状の解決策にはならないが、そのことにこだわる老人の繰り言である。
(写真は今切れ川のユリカモメ、文とは関係ありません)
阿波の助っ人・くらしのサポーター 三原茂雄