公開日 2024年07月

~渡し船(渡船)は懐かしい言葉に~
吉野川市に阿波中央大橋が架かったのは昭和3年であるが、戦後昭和23年に橋は流出し、昭和28年に橋梁として完成するまで、渡し船が運行されていた。この時の話である。ある若い男女が通勤途上でよく一緒の船に乗り合わせた。もちろん話すこともないのだが、ある日、男性のもとにお見合いの話が来た。写真を見るとあの渡しでよく一緒になる女性であった。お見合いは成功した。
この話を聞いたとき、吊り橋の実験のことを思い出した。カップルでよく揺れる吊り橋の見物に行く。先に男性が渡り、後から女性が渡る。後からの女性が渡るときにそれなりに橋が揺れてドキドキしながら渡りきる。待っていた男性に対して女性は好感を抱く。ところが、固定橋で揺れが全然ない場合は女性の心情に変化は見られないようである。
渡し船と言えばあちらこちらで多く見られたが、昨今、吉野川水系で運行されているのは旧吉野川支流の今切川の河口にある松茂町長原と徳島市川内町をつなぐ渡しのみである。この渡し舟は、川内側では船着き場の待合室がないため、場所がわかりづらいしまた、乗船するには長原側に向かって大きく手を振り合図をすれば船が迎えに来てくれるのであり、馴れた人でないと利用に戸惑う。
旧吉野川の広島地区には昔渡し船(渡船と言った方が分かりやすい)があったが、広島橋ができ、更に国道の新広島橋が架かっている。その二つの橋の中間くらい川の南には渡船があった跡を示す石柱が建っている。昨今河川の拡幅工事が行われており、石碑も移転をするか、破棄されることだろう。ちょっと寂しい。
40年ほど昔に鳴門教育大学が発足した。当時の大学案内のパンフレットを見ると小鳴門海峡を行き来する高島の渡船の写真があったが、まもなく消えた。都会育ちの学者の先生には何とも言い難い風情があったので、現役の教員の研修には打って付けの大学と思ったのだろう。学部の若い受験生には人気がなかったのか、渡船の写真は早々に姿を消した。
(写真は私の近所の渡し跡)
元しらさぎ消費者協会会長 三原茂雄