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vol.174.大坂の米高騰の責任

公開日 2025年07月

R707

~和算史の裏面の雑談~

 数学の授業の息抜き。ちょっとした無駄話、昔も今もコメ問題は大変なことであり、恣意的なコメの値段の高騰には処罰があり、死刑にもなる恐れがあった。和算史では裏付けのない噂と扱われている話。『明治前日本数学史』第一巻(岩波書店)から。

 元文・寛保のころ、大坂に藤井玄順という算者がおり、その門弟に百川一算がいた。一算の門弟の一人に堂島のコメ商人がいた。ある年、コメ商人は時期がきてもコメが売り切れずに困っていた。何とかしないと米屋が潰れるのである。何とかコメを売りさばきたく、一算に相談した。黙って聞いていた一算は、「○○両のお金をいただけないか。」米屋は黙って渡した。

 一算は、米問屋の主人からかなり大金をもらい旅に出た。その後一算の様子は分からなかった。ところが、やがて東の方から物乞いが大坂の街に現われだした。一様に「奥羽では飢饉でコメがとれなく、農民が逃散して江戸は物乞いが増えている」、それで江戸ではおれなく大坂へ逃げてきた。日増しに増える物乞いに大坂の街は大騒ぎになった。件の米問屋はすべての米が捌けて大儲けした。

 町奉行は不思議なことなので、事件として捜査して、その犯人が百川一算であることを突き止めた。一算が、奥羽地方が飢饉であるというウソ情報を流し、物乞いを通して大坂の街に流布した。一算は、奥羽地方の飢饉のウソの噂を広めた罪により死刑に処せられることになったが、いろいろな経過を経て、一算は佐渡への流刑が決まった。

 寛永4年、一算は唐丸籠で佐渡に渡るべく新潟についた。雨が降り続き、船を出せない。その期間、牢番の見張り役になったのが、算学を嗜む亀井津平であった。船が出ないことが幸いして、亀井は一算から算法を習い習熟した。百川、一算という罪人の名前を使えず、亀井算と名乗るようになった。このことから、新潟は和算の発達した地域となった。

 雨降りが続かなければ、新潟の和算の発展が遅れた。亀井算も埋もれていた。雨降りで船が出ないことも幸いになることもあった。梅雨時の雑談は終わり。
(カットは、右が、甲+乙、左が、子−丑の和算の表示)

元しらさぎ消費者協会会長 三原茂雄